パーソナルコンピュータの時代が(再び)やってくる
Panta rhei
世の中がなにやらややこしいことになっております。この長きに渡って在宅が推奨されるなど,私の経験した限りでは初めてのことです。しかも,この状態は思いのほか長く続きそうです。専門家の間では伝染の収束だけでも何年かかかるという見方が多いようです。
しかし,物事の悪い面ばかり見ていても仕方がありません。社会に生じつつあるさまざまな変化のうち,良い面にも目を向けて,これを最大限に活かすべきでしょう。
急速に進みつつある PC 回帰の流れ
在宅勤務・在宅学習への移行を受けて,世界的に,PC 関連製品の需要が急速に高まっています。
ウェブトラフィックの面でも,PC への回帰が指摘されています。
これは,従前市場を牽引してきたスマートフォンやタブレットでは,リモートワークや自宅での余暇活動といった用途に対応するのは困難であるという事実を裏付けるものです。さらにこのことが持つ意味は,単なる特需としてのものに留まりません。これを機会に PC とその文化が再生するのであれば,10年代のサイバースペースにおいて見られた弊害を一挙に改善できるかもしれないのです。
なぜスマートフォンではなく PC なのか
「パーソナルコンピュータ」という革命
「パーソナルコンピュータ」という語は,コンピュータ computer という語にパーソナル personal という形容詞がついたものです。つまり,ここにいう「コンピュータ」とは,personal に利用することなどほとんど不可能であったメインフレームコンピュータ mainframe computer を指しています。メインフレームを縮小したものにミニコンピュータ minicomputer があります(同様に,ミニなメインフレームという意味です)。しかし,これも一般人が持つことなど到底叶わないものでした。
その点,パーソナルコンピュータとは革命でした。アーキテクチャからしてメインフレームのそれとは断絶しており,もともと電卓に使うチップから発展したものです(マイクロプロセッサ)。NEC の PC-8001 やその前身である TK-80 が「コンピュータ」の部門ではなくマイクロプロセッサの販売部門によって半ばこっそりと作られたものであることは有名な話です。Apple は有名な CM 「1984」で「コンピュータ」に宣戦布告しました。Linux は「コンピュータ」の OS である UNIX と同じように使えるものを Intel 80386 に移植するという取り組みでした。この革命は成功しすぎるほど成功し,今では電卓上がりの系譜を汲む x64_86 がメインフレームをほとんどの場所で駆逐し,大部分のサーバやスーパーコンピュータは Linux で動いています。今では「コンピュータ」と聞いてメインフレームを想像する人はまずいないでしょう。近年,データの民主化や AI の民主化といった概念が使われることがありますが,その嚆矢となったのは,コンピューティングそのものの民主化であったのです。
スマートフォンの限界
単純に語義を見れば,スマートフォンやスマートフォンの OS を採用したタブレットもパーソナルコンピュータの一種であると言えます。しかし,現行の主なスマートフォン等のシステムには後述するような大きな制約があるため,独立したコンピュータというよりも特定のソリューションの端末といったほうが実態に近く,またそれによって「パーソナルコンピュータ」が本来持っているはずの可能性を喪失していることから,形式上も事実上も区別して論じる実益があります。
スマートフォンは高性能・多機能なタッチパネル搭載の携帯電話であり,Linux 系カスタム OS や Windows Mobile 等を搭載したものが古くからありましたが,08年の iPhone 3G 発売・Android リリースによって,PC の代替としてのスマートフォンの可能性が現実味を帯びて論じられるようになり始めました。間もなくスマートフォンの OS を採用したタブレットも登場し,これらが急速に普及を続けた結果,スマートフォンは実際に PC を代替し始めるに至りました。
しかし,スマートフォンやスマートフォンの OS を採用したタブレットは本当に PC の代わりとしての役割を果たしたのでしょうか?
インタフェースの制限
スマートフォン等と PC を比較して,いちばんわかりやすい違いはインタフェースの制限でしょう。
PC においては,通常,多くの文字をすばやく入力できるキーボード,画面の特定の場所を正確に指定できるマウス等のポインティングデバイス,そして大きく見やすいディスプレイが備わっています。そのため,はじめにごく基本的な使い方を身につけるだけで,文書作成,プログラミング,画像編集,その他あらゆる創造的な用途への活用の入り口に立つことができるのです。
一方スマートフォン等では,入力デバイスはタッチパネルだけです。スクリーンキーボードはどうやっても物理的なキーボードの入力効率にはかないませんし,指でタップしたところで,だいたいの場所しか指定することができません。スクロールの途中でタップと誤認識されて勝手にタブが開くようなこともあるように,人間工学的にも大いに問題があります。高価な機種ではデジタイザを内蔵してペン操作にも対応しますが,マウス等と比べるとかなり不便で疲れやすいというのが実情です(ペン操作でしかできないことも多いですが,PC であれば数千円のペンタブレットを購入すればよいだけです)。ヒューマンインタフェースが限られているぶん使い始めるのは簡単ですが,少し先に進むと崖に突き当たることになります。さらに,ディスプレイは小さく,通常 4~8 インチ程度しかありません。
もちろん,スマートフォン等であっても,Bluetooth や USB OTG を通してデバイスを接続することは可能です。大画面のタブレットであれば,外形的には PC に似通ったものにすることができます。しかし,そのような運用を本格的に試してみたことのある方であれば,決して PC と同等にはならないことはおわかりでしょう。OS もアプリケーションも PC とはまったく異なるためです。また,HID のほかは対応しているハードウェアはごく限られています。PC の劣化版に仕立ててまで使うくらいなら,はじめから PC を使うべきです。
アプリケーションの UI は,太い指と小さい画面で使いやすいように最適化されています。逆に言えば,ハードウェアを追加したところで PC のような細かい操作をすることは不可能であるということです。Android も iOS(iPadOS) も PC 用ハードウェアを利用できるようにするために少しずつ変更が加えられていますが,結局のところは UI の一貫性を失わせるという,これまで意図して回避してきたタブーを犯すことに他なりません。OS の API が対応しても,主要なアプリケーションがすべて対応することは期待できないでしょう。かつて Microsoft が総力を以って取り組んだ Windows 8 における UI 変更も散々な失敗に終わりました。単に UI を2つに切り分けたところで,きっとこの二の舞となることでしょう。
このような制限のため,スマートフォンやタブレットしかなければ,その端末のためのアプリケーションを作ることもほとんど不可能です。Youtube も Twitch も,コンテンツを作る側に回るには PC が事実上必須です。全員がインフルエンサーやアフィリエイターになってステルスマーケティングで身を立てられるのならよいのですが,残念ながら(あるいは幸いにして)そのようなことはありません。
最も基礎的な用途であろうウェブブラウジングについてさえ,PC とスマートフォン等の間には大きな違いがあります。スマートフォンは,従来型のいわゆるフィーチャーフォンと比較して,PC と同じサイトを利用できるというのがセールスポイントとされました。しかしながら,画面の大きさや UI の問題から,PC 用とまったく同じページを利用するのは困難です。現実的には,スマートフォン用・タブレット用にデザインされたページを利用することになります。そしてこれらのページは PC 用のページとは内容が大きく異なります。一例をあげれば,価格.com の PC 用ページでは価格順の表示が既定であるのに対して,スマートフォン用のページでは売れ筋順の表示となります。一覧表示されるスペック等の情報もごく限られており,他者の手によって処理された情報を消費することに最適化されているのです。
もし Altair 8800 がレバーの組み合わせでランプが光る当初のインタフェースのままであれば,社会にインパクトを与えることは決してなかったでしょう。パーソナルコンピュータは,メインフレームと同じようにディスプレイとキーボードを接続できるようになったことで世界を変えることができたのです。スマートフォンやタブレットのコンセプトは既に限界に達しており,拡張現実(AR)やブレインマシンインタフェースの開発・導入によっていままでとまったく違うものに変わるなどのイノベーションがない限り,この壁を乗り越えることはできません。
OS の制限
さらに深刻なのは,スマートフォンの OS ではユーザの自由が極端に制限されていることです。iOS では Apple が認めたアプリケーションしかインストールできません。Android ではアプリケーションのサイドロードはできるものの OS のアップデートさえ満足にできない端末がほとんどです。自分の端末のはずなのに,ベンダの販売戦略や政治的な思惑に振り回されることになります。非公式の方法で OS にアクセスすることは可能ですが(脱獄・root 化),設計段階でひどく制限されたシステムであるため,それも根本的な解決にはなりません。
スマートフォン用の OS では,ユーザが OS に手を加えることが難しいように設計されています。これには,不用意な操作でシステムが壊れにくいというメリットもあるものの,ユーザがシステムを自己のものとして管理することができないという決定的な問題があります。Android の「root 化」にいう root とは,システムの管理者権限のことです。脆弱性を攻撃しない限り,自分の端末の管理者権限を持つことすらできないのです。OS やシステムアプリケーション内部の情報は隠蔽されているため,ベンダがスパイウェアや脆弱性のあるソフトウェアをプリインストールしていた場合に被害が広がることにもつながっています。iOS に至っては,ユーザに対してはファイルシステムさえ隠蔽されています。もともとハードウェアの修理が厳しく制限されているだけではなく,大切に使ったところで寿命はソフトウェアアップデートの提供方針に縛られており,ライフサイクルは販売戦略によって恣意的に操作されることになります。これでは自分のものとは言えず,ほとんど借りているようなものです。
そのうえ,OS の段階で広告表示によるマネタイズを念頭に置いて設計されており,事実上 Google や Apple のウェブサービスへの接続を前提としているため,プライバシ面でも懸念があります。さらに Xiaomi の一部製品などでは,OS 自体の UI の中にも広告が組み込まれています。あなたがスマートフォンを覗くとき,スマートフォンもまたあなたを覗いているのです。
スマートフォンが社会を分断しつつある
さて,ここまでスマートフォンやスマートフォンの OS を採用したタブレットと PC の違いについて見てきました。これらの違いは社会にどのような影響をもたらすのでしょうか?
重要なのは,スマートフォン等は消費に特化した機器であるというということです。この特徴は,まさにパーソナルコンピュータ登場以前の問題を再現しつつあります。すなわち,「コンピュータ」の力を持つ者と,持たざる者の分断です。
「デジタルデバイド」という語はほとんど死語となりつつありましたが,ここにきて再び切実さを増しています。近年,PC を使えない若者が再び増えていることが指摘されています。これを「時代の移り変わり」と断じることは簡単でしょう。しかし,先に見たように,スマートフォン等では PC で可能な多くのことができません。スマートフォンで消費するためのコンテンツでさえ,スマートフォンでは作ることは難しいのです。この大きな溝の存在は,社会階層を固定することにつながります。
さらに,先進国と途上国の構造的な格差(南北問題)にも影響を与えかねません。先進国では今でも PC もある家庭が多いですし,どうしても必要となれば購入することができる場合が多いでしょう。義務教育で基本的な扱い方も教えられています。一方途上国では,義務教育によってそこまでカバーすることは容易ではなく,各家庭の取り組みが重要となる場合が多いはずです。しかし,スマートフォンは(途上国においては社会階層を示すアクセサリとしての役割を帯びていることもあり)多少無理をしてでも購入する場合が多いのに対して,それに加えて PC まで持つことのできる家庭はかなり限られます。途上国で PC に触れる機会を得られなかった若者が増えていけば,南北問題はますます深刻化することでしょう。
それだけではありません。フェイクニュース等による世論操作もまたスマートフォンやタブレットの産物と言っても過言ではありません。PC であれば,長い文章も読みやすく,タブを切り替えて多くの情報から取捨選択することができます(少なくとも,ずっと容易です)。しかしスマートフォン等では,レコメンデーションシステムやフィルタバブルによって自動的に操作された情報に依存せざるをえず,小さな画面に表示される密度の低い UI に収まるような短文のマントラを思考することなくシェアすることになるのです。ドグマは SNS のエコーチャンバーで際限ない増幅を続け,過激さを増しながら市民社会を破壊していきます。背後で煽動しているのは,もちろん,巨大なボットネットの力を持つ者たちです。
オーウェルの『1984』には,「テレスクリーン」という機器が登場しますが,歴史上スマートフォンほどテレスクリーンに近づいたものはないでしょう。さらに悪いことには,そこに表示されているのはビッグデータと AI によってぴったりに仕立て上げられたテイラーメイドの「二分間憎悪」なのです。
可能性をすべての人の手に取り戻せ
あまりにも長きにわたって,PC 代替としてのスマートフォンやタブレットという営業トークがナイーブに受け入れられてきました。しかし現実には,Apple は iPadOS を発表し Google は ChromeOS の普及に力を入れるなど,陰でさまざまな試行錯誤が続けられています。最近では Apple が ARM プロセッサ採用の Macbook を開発しているのではないかという予測まで報じられていました。
そして,ここに至って,スマートフォンやタブレットの限界は誰の目にも明らかなものとなりました。
誤解のないように言うと,何もスマートフォンを捨てろと言いたいのではありません。私自身,スマートフォンを使用しています(それも,iPhone が登場するずっと前から)。しかし,スマートフォン等はあくまでも消費のための機器であって,決して PC の代替にはなりません。コンピューティングの力が再び独占されることを防ぎ,進みつつある社会の分断を阻止するためにも,PC とその文化をすべての人に普及させねばなりません。
いまこそ,自由をわれわれ自身の手に取り戻すときです。混乱とともに幕を開けた20年代が,再生と創造の時代となることを願ってやみません。
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