社会不適合者の偉人たち

あるいは名も無き社会不適合者の自己弁護。

ディオゲネス(前412? – 前323)

ディオゲネス

古代ギリシアのシノペに生まれた哲学者。服もまとわずそのへんに転がっていた大きな甕の中でゴロゴロして暮らし,あらゆる知識を鼻で笑い,あらゆる慣習を放棄した。そして,しかめ面をした哲学者たちをからかって回った。ポリス(都市国家)への帰属意識の高かった時代にコスモポリタンを名乗り,自足することを目指すべき徳とし,何も所有しないことを勧め,実際に何も所有しなかった。

プラトンはディオゲネスを評して「狂ったソクラテス」と言ったという。もちろん軽蔑する意図での発言ながら,なんと魅力あふれる二つ名であることか。この徹底した社会不適合っぷりながら市民には慕われていて,ディオゲネスが必要とするものがあれば何でも提供されたという。

ヘンリー・キャンベンディッシュ(1731 – 1810)

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18世紀英国の化学者・物理学者で,科学者としての実績もさることながら,とにかくものすごい人間嫌いとして有名な人物。名門貴族の当主で大金持ちなのに人間嫌い。当世一流の碩学で知られ全国の知識人から広く尊敬を集めているのに人間嫌い。人間嫌いなので大学も中退。人間嫌いなので生涯独身。どれくらい人間嫌いなのかというと,人に話しかけられても返事すらしない。あまりに人間嫌いすぎて,存命中から注目を集め高い地位についていたにもかかわらずその人となりについての記録はあまり残っていない。特に女性が苦手で,自分の家のメイドと顔を合わせることも非常に嫌がる。たまーになにか言ったり,自ら満足した一部の論文を発表したりする。

財産にも名誉にも全く興味がなく,ただ研究することのみを人生の意義として,78年の長い生涯を通して発見の多くは発表しなかったために,多岐にわたる分野の膨大な発見をしたにもかかわらず科学史に与えた影響はそれほど大きくなかった。死後発見された遺稿を見て科学者たちは「これが生前に公開されていたら」と惜しんだという。

フリードリヒ・ニーチェ(1844 – 1900)

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ニーチェは幼い頃とても内気な少年だったという。やがて伝統的価値観への挑戦を志すようになるが,依然として人間嫌いのままだった。『新編西洋史辞典改訂増補』では「孤独で狷介な性格」と紹介されている。キリスト教(欧州における伝統的価値観)をルサンチマンとして攻撃した彼は,実のところ自分自身についてはルサンチマンの塊だったようで,彼の著作には自らがあまり認められないことに対する苛立ちのようなものが見え隠れする。苛立ちが頂点に達したのが『この人を見よ』で,自分がいかにエラくてスゴいのかが延々と書き連ねてある。これを書き上げた翌年にはとうとう狂気に飲み込まれてしまった。

プライベートでも多難だったらしい。女性に対して非常に奥手でぎこちない一方,すぐ深く恋に落ちてしまう性格だったようで,生涯を通してさまざまな女性にまわりくどくてなんだかよくわからない手紙を書いてみたり,かと思ったら突然告白しては断られたりしている。福岡女子大教授(当時)恒吉良隆氏は論文「ニーチェをめぐる女性たち:ニーチェの女性観の背景(I)」で,ニーチェが惹かれた女性は「どちらかというと小柄で,繊細な感じの,しかも音楽好きのタイプ」が多かったと指摘しており,これもなんかなるほどねという感じである。最も深く恋に落ちた相手はルー・ザロメという当時21歳の女性だったと言われ,共通の友人であるパウル・レーと争ったうえ唐突に求婚し,すげなく断られて失恋している。この際の傷心は相当のものであったようで,自殺の意向まで仄めかしている。なお,この時のニーチェの年齢は38歳。いい年したオッサンが何やってんだか。

また,ニーチェにはエリーザベトというブラコンの妹がいたが,だんだん差別主義に凝り固まり,ユダヤ人差別や保守的道徳観によってニーチェの研究や恋路をひたすら邪魔する存在となり,ニーチェのただでさえつらい人生を更につらくしていった。敬愛する兄を「取られる」ことに嫉妬したのだとも言われているが,なんにせよ,全くモテないのに勝手に恋に患うニーチェにとってはさらに妨害まで入るなんて本当に迷惑極まりない話である。そのうえエリーザベト自身はブラコンのくせにちゃっかり結婚してるし。あげく,ニーチェの没後はその思想をナチズムのために都合のいいように利用して,長らくニーチェに対する後世の評価を落とす原因となった。散々である。

逸話では,ニーチェは広場で鞭打たれる馬を見て,突如駆け寄って涙をこぼしながら抱擁し,そのまま二度と正気に戻ることはなかったともいう。史実ではないにせよ,ニーチェの生涯をよく表している気がする。

エリック・サティ(1866 – 1925)

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学校生活に馴染めずに名門パリ音楽院を中退し,長じてからはクラシック音楽の伝統を徹底して問いなおした異端児サティ。やはりというか,私生活でも変人だったようで,作曲家でなく「音響測定家」などと名乗っていたとか,信者が自分しかいない宗教を立ち上げて細かい設定まで考えていたとか,いつでも決まってスーツを着て山高帽をかぶりこうもり傘を携えていて死後アパートからは大量の傘が出てきたとか,そういう奇妙なエピソードには事欠かない。

自らの編み出した「家具の音楽」に耳を傾ける聴衆に「お喋りを続けるんだ! 歩け,聴くんじゃない!」と叫んだサティは,自らの作品に取ってつけたようなナンセンスでしばしば猥雑な歌詞をつけるのが趣味だったようで,とにかくスノビーな価値観をいかに冒涜できるかに心血を注いでいたとしか思えない。

音楽家にしては珍しく若い頃の浮いた話は残っておらず,27歳になってシュザンヌ・ヴァラドンという女性と交際を始めるものの,たった半年で振られている。その後は生涯独り身を貫いた。つらい。

キャンベンディッシュのように自分の世界の中にしか興味がないのかといえばそうでもなく,政治活動や後進との交流にも積極的に取り組んでいたりするし,いい年してナンセンスなバカ映画に出演してはしゃいだりもしている。もう社会に適合できなくてもいいじゃないか,金も名誉も愛だっていらねえじゃねえかと思わせる,自由で愉快な生き様。

フランツ・カフカ(1883 – 1924)

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ここまでに紹介した他の4人とは違い,公務員として立派に社会に溶け込んでいた真っ当な人物である。ただし,自ら気に入った作品は聴衆の前で好んで朗読するかと思えば,未発表の原稿は死後全て焼却するよう友人に遺言するなど,自意識過剰な完璧主義が透けて見え,また発言からは,人生について一貫して悲観的,虚無的であったことがわかる。やはりどちらかというとこっち寄りの人物だったようである。

しかしその一方で,結婚こそしなかったもののいつでも誰かしら自らを愛してくれる女性に恵まれていて,仕事にも熱心で,人当たりの良い人物だったという評価が残っている。そのためか,ユダヤ教の聖者のように仕立てあげられたり,逆に女たらしの野心家だったと言われたりと,人物像が一定しない。個人的には,悲観主義的で繊細ながら確固とした思想と,フレンドリーかつ謙虚な性格の持ち主であり,内に大きなエネルギーを秘めつつも現実的なところで妥協することを心得ている人物だったのだろうと思う。

大学時代,本当は哲学に興味があったが,父の反対で断念。妥協の結果としてあまり気の進まない法律を学びつつ,芸術関係の講義を受けたり哲学の話をしたりして過ごす。そんなわけで成績はあまり良くなく,なんとか卒業できたという感じだったようだ。このへんはなんだか親しみを覚える。卒業後は政府の傷害保険局に勤務。有能な職員として出世は重ねたが,いわゆる普通の公務員としての生活を送った。しかしそのおかげで,安定した生活を維持しつつ自分の時間を多く取ることができ,執筆活動に精力的に取り組むことができた。また,彼の作品に登場する不条理なシステムのモデルはオーストリア・ハンガリー帝国末期の官僚制にあるというのはよく指摘されていることであるし,『流刑地にて』など,傷害保険局職員としての業務内容が色濃く反映されている傑作もある。もしカフカが現実に折り合いをつけて平凡な職業を選んでいなかったら,あの歴史に名を残す作品群は生まれていなかったかもしれない。

……あれ,おかしいな? 社会に適合したほうがいいみたいな結論になってしまった?

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