202X年 HMD のある暮らし

 けたたましく鳴る目覚まし時計のアラームで目が覚めた。時刻を見ると,8時半。ちょっと寝坊してしまった。ベッドから飛び起きて,急いで身支度を整える。寝ぐせを櫛でねじ伏せて,顔を洗って。財布を忘れず持ったことを確認してから,充電台から「眼鏡」を取って装着した。
 <おはようございます>
 自動で「眼鏡」の電源が入って,控えめな色の文字が視界に浮き出る。これからまた家に帰るまで,自分はこの「眼鏡」越しの景色を見て過ごすことになるわけだ。この「眼鏡」というのは,もちろん単なる眼鏡ではない。最近出てきたちょっと面白い機械で,見た目は普通の眼鏡と何ら変わらないながら,液晶ディスプレイのようにさまざまな情報を表示できるのだ。つまり,現実世界に「眼鏡」の映像が重なる格好になる。これを「拡張現実」と言うそうだ。拡張現実。まったくその通りで,入力も出力も肉体とうまい具合に一体化している。たとえば,「眼鏡」のディスプレイが表示可能な領域は視界のほとんど全体に渡っていて,ヴァーチャルなものを全く違和感なく現実に重ね合わせることができるし,つるに内蔵された骨伝導イヤフォンで音も鳴らすことができる。操作もいかしていて,視界全体がまるでタッチパネルのように指で操作できるほか,簡単な機能は視線ジェスチャで,目を動かすだけでもできる。ほんの数年前まで,ちっちゃいタッチパネルを親指で必死にいじくっていたことを考えると,まったく信じられないほどの進歩だ。
 いや,そんなことを言ってる場合じゃないな。なんとか次のバスに間に合わせないと!

 急いだおかげか,ちゃんとバスに間に合った。そのうえ意外に空いていて,席に座ることもできた。これはありがたい。
<「今日のニュース」>
 一息つくと,「ポーン」という電子音とともに文字が浮き出て,ニュース記事の一覧が空中に現れた。「眼鏡」はなかなか賢くて,GPS や加速度センサなどの情報をもとに,ユーザがいまどこで何をしているかを判断して動いてくれる。この場合は,バスが発進したことを認識して,いつも退屈まぎれに開く「今日のニュース」アプリを自動で表示したわけだ。こういうのを「コンテキスト・アウェアネス」と言うらしい。この流れは最初からプログラムされていたわけでもなければ,自分で設定したわけでもない。ただ,バスが発車したら「今日のニュース」を開く,ということを何度か繰り返しているうちに,機械の方で勝手に覚えてくれたのだ。
 どれどれ…… ん,「松野家,牛丼また値上げ」? こいつはけしからんな。いくら上がるんだろう。気になったニュースがあれば,ただ単に指を伸ばしてその記事のタイトルを押せばいい。もちろん現実世界には何も無いのだけれど,「眼鏡」の視界では30cmくらい離れたところにディスプレイがあるように見えて,そのあたりを指で触るようにすればちゃんと反応してくれる。この仕組みはなかなか不思議だけれど,超音波とサーモグラフィーの組み合わせで実現しているらしい。なんとも便利だが,一つだけ問題がある。傍から見たら不審者以外の何者でもないのだ。「眼鏡」もだいぶ普及してきたので購入当初のように不審者を見る目で見られることも少なくなってきたが,やはりあんまり格好の付くものではない。メーカーも同じ事を思っているのか,近頃は脳波を読み取って操作する仕組みの開発に力を注いでいるとのことだ。実現まであと一歩というところまで来ているらしい。これが使えるようになれば,もう人の目を気にする必要もなくなるだろう。
 ちなみに牛丼は30円値上がりするらしい。貧乏学生にはつらい話だ。

 午後の講義がひとつ休講になった。図書館で本を読んでもいいが,せっかく天気がいいのだから少し散歩でもしよう。ジェスチャーで「眼鏡」のメニューを呼び出し,「ヴァーチャロポリス」を起動した。これはいま世界中で大人気のアプリで,現実世界のあらゆる場所,物に好き勝手にメモを貼ったり 3D モデルを置いたりできる,言わば VR 掲示板だ。20年近く前,日本の会社がこれとよく似た機能を持った携帯電話アプリをリリースしたそうだが,当時のハードウェアの制約からあまりうまく行かず終わってしまったらしい。世に出るのが早すぎたとしか思えないものが,世の中には時々あるものだ。
 新しいもの好きの人が多いキャンパスだからか,あまり人の通らないような裏道であるにもかかわらずやたらめったらと書き込みが多い。「ここで携帯電話を落として壊した。かなしい」お気の毒に。「至急! 誰か“UNIX システム概論”のノート見せて!」授業に出ろ。「ここでツチノコを見た。転がるようにして逃げていった」んなアホな。「この木の名前知ってる人いたら教えて」これは心当たりがあるので返信。「たぶんサルスベリじゃないかな」
 陽にあたって健康的なんだかネット浸りで不健全なんだかよくわからない散歩をしているうちに,次の講義の時間が近づいてきたので,講堂に向かった。

 退屈な授業を終えてバスに乗ったが,今日はまだ家には帰らない。新宿で旧友と少し飲む予定があるのだ。連中と会うのは久々なので,なかなか楽しみなところ。
 <新宿までの乗り換え案内を表示しますか?>
 駅構内に入ると,半透明のウインドウが表示された。スケジュール帳のデータから新宿に行くということを予測し,乗り換え案内を自動で検索してくれたのだ。「はい」ボタンを押すと,何分の電車に乗ればよいのかの案内が表示された……が,電子切符のクレジットが切れていたんだった。まずは入金しなきゃなあ。指先でウインドウをひょいとつまんで脇に移動させて,券売機へと向かった。

 電車はかなり混んでいた。電車に限らず,公共交通機関というのはどうも好きになれない。むやみに人が多くて心が荒んでくる。混んでいなければそうでもないが,いつ乗っても混んでいる気がする。絶望的だ。でも,そんな電車の中を多少はマシにしてくれるものがある。それが「眼鏡」だ。ほら今も,電車が発車したことを認識して,自分好みのラテンジャズをかけてくれている。
<「読書」アプリを起動しますか?>
 こう混んでいては手を動かしてボタンを押すわけにはいかないので,両目をぎゅっとつむる。これが「はい」の意味だ。すぐに画面が切り替わり,読みかけの『日本の宇宙開発史』が表示された。ページ送りは自動で,視線の動きを認識してうまいタイミングで次のページに切り替えてくれる。
 さて,つり革にしがみ付きながらではあるが,しばらく本を読みながら到着を待つことにしましょうか。あいつら,変わってないかなあ。

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